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橋田壽賀子の経歴まとめ!生い立ちや両親・学歴・死因までを追った

「渡る世間は鬼ばかり」の脚本で知られている脚本家の橋田壽賀子さんが、2021年4月4日に逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。

 

橋田壽賀子さんは日本が大日本帝国と呼ばれた時代に朝鮮半島で生まれ、激動の時代を生き抜いた、正に『歴史の生き証人』です。そんな橋田壽賀子さんの人生を振り返ってみましょう。

 

橋田壽賀子の経歴まとめ

 

橋田壽賀子さんは植民地時代の朝鮮で生まれ、日本に帰国後は格差や男尊女卑の激しい社会での生活を余儀なくされ、相当なご苦労をされたようです。

 

橋田壽賀子の生い立ちと両親について

出典ー日本経済新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44197000V20C19A4TBD000/

 

 

橋田壽賀子さんは上述の通り、日本統治時代の京城(現:大韓民国・ソウル)で生まれました。この時お父さまは34歳、お母さまは35歳で、結婚7年目でようやく生まれた待望の第一子だったそうです。

 

しかし、橋田壽賀子さんのお父さまは不器用な人だったからなのか、幼い頃はほとんど会話をしたことも可愛がってもらった記憶も無いそうです。

 

橋田壽賀子さんは小学校に上がる直前、お母さまに連れられて船に乗ります。お母さまの実家がある大阪の堺に遊びに行くのかと思いきや、到着した東京でいきなりお母さまの次姉(伯母)に預けられたのです。

 

当時は、経済的に困窮している家の子供が親戚に預けられるというのはよくある話でしたが、東京に向かう直前に父母が「おまえが育てろ」「あなたが育てて」と言い争っている声を聞いた橋田壽賀子さんは『親に捨てられた』とショックを受けたそうです。

 

幸い伯母は子供がいなかったので橋田壽賀子さんを自分の子供のように可愛がったそうですが、小さい子が親元を離れた心細さといったら途方もないものです。

 

橋田壽賀子さんは当時の心境をこのように記しています。

子どもがいなかった戸越の伯母は、私を実の娘のようにかわいがってくれた。やがて宮前尋常小学校に入学した。でも伯母が送ってくれないと学校に行かない。行っても伯母の姿が見えなくなると追いかけた。

両親に捨てられたと思い込んでいた私は、おばちゃんにも捨てられることを幼い心の中で一番恐れていた。

(日本経済新聞 有料版記事より抜粋)

 

 

橋田壽賀子の学歴 格差社会に苦しめられた学生時代

出典ー日本経済新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44197650V20C19A4TBD000/

 

突然東京の伯母に預けられた橋田壽賀子さんですが、幸い友達も沢山出来て楽しい日々を送っていたそうです。

 

数年後、お母さまが橋田壽賀子さんを連れてソウルに戻り、小学校4年生になる直前に大阪の堺に引っ越し、名門と言われていた浜寺尋常小学校に転校しました。

 

ソウルで育った日本人の子どもにはお国なまりがないせいか、標準語を話す橋田壽賀子さんはいじめの対象となりました。

 

いじめてくる女の子に反撃したところ、その女の子の父親が検事だった為転校を余儀なくされ、英彰尋常小学校に通うことになりました。

 

その後、橋田壽賀子さんは与謝野晶子も出た堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に猛勉強の末入学します。しかし、入学後は成績が追い付かず、つじつま合わせの為にお母さまに慰問文の課題や裁縫の提出物をこなしてもらっていたそうです。


意外にもこの頃の橋田壽賀子さんは文章を書くのが苦手だったそうです。

 

橋田壽賀子さんはお母さまの過干渉から逃げる為、東京にある日本女子大学文学部国文学科に進学します。しかし、そこでの寮生活は士族や華族の子どもが多く差別的な空気が蔓延しており、平民だった橋田壽賀子さんは肩身の狭い学生生活を余儀なくされました。

 

1945(昭和20)年3月10日、私はご飯を食べさせてもらうため、戸越銀座の伯母の家にいた。空襲警報が鳴り響いて、B29の大編隊が東京の下町に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせて去って行き、下町が紅蓮(ぐれん)の炎に包まれるのが戸越からはっきり見えた。「あの火の海の中で何人が焼け死んでいるのだろう」。叫びたいような悲しみに包まれた。

(日本経済新聞 有料版記事より抜粋)

 

そして、大学在学中に起こった東京大空襲。大学はすぐ閉鎖となり、大学で出来たご友人とは二度と会えなくなるかもしれない恐怖の中、橋田壽賀子さんは東京での生活を送りました。

 

その後、橋田壽賀子さんは国語学者になる夢を実現させるべく早稲田大学を受験。この時、お父さまが用意した許嫁との結婚を無視して大学に進学した為勘当されたそうです。

 

橋田壽賀子の就職から活躍まで 男社会で苦労した10年

出典ー日本経済新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXKZO44630160Q9A510C1BC8000/?unlock=1

 

早稲田大学に入学してから、突然橋田壽賀子さんは歌舞伎の魅力に目覚め、何とあっさり学部を芸術家に転校。劇団員として芝居にも明け暮れましたが、この頃から『演劇を作る』喜びに目覚めていったそうです。

 

そして、人生初の就職が決まります。採用先は映画会社の松竹です。脚本の勉強をしながら食べていけるということで最初は期待に満ちていたものの、お茶くみばかりやらされれる男社会に嫌気が差し、人事で秘書課へ移動が決まったのを機に退社。退社までの10年間にかけた脚本の数は、たったの3本だったそうです。

 

松竹に勤める傍ら、少女小説や少女漫画の原作を書いて原稿料を貰っていた橋田壽賀子さん。そんな生活を続けながら、お金が貯まるとすぐに旅行に行くという日々を送っていたそうです。

 

そんな橋田壽賀子さんに転機が訪れます。テレビドラマの脚本を各テレビ局に売り込んでいた時に日本テレビに採用され、自分が書いた脚本が一文字も変えられずに放送されたことにいたく感動されたとか。(昭和61年7月放送の「夫婦百景」シリーズ「クーデター女房」)

 

その後3年間はまともに仕事が無かったものの、TBSでプロデューサーとして活躍する石井ふく子さんに『愛と死をみつめて』の脚本を依頼され、これがきっかけで橋田壽賀子さんは一躍有名脚本家となりました。

 

橋田壽賀子の活躍から死因まで 最期は熱海の自宅で逝去

 

愛と死をみつめて』以降、様々な作品の脚本を手掛けた橋田壽賀子さん。なかなか売れないに日もあったそうですが、この頃一度結婚され、嫁姑問題を肌で感じた経験を元にした『となりの芝生』の脚本がブレイク。

 

その後、誰もが一度は耳にしたことのある『おしん』『春日局』『渡る世間は鬼ばかりシリーズ』で超売れっ子脚本家となりました。

 

橋田壽賀子さんは自身が脚本を手掛ける作品で多くの俳優を『干した』ことでも知られていますが、実際テレビ番組で『私は嫌いな役者は、作中で出張させたり、死なせたりします』と語っています。並々ならぬ作品への情熱がそうさせたのやもしれません。

 

また、おしんでの演技がいたく評価され、その後の橋田壽賀子の作品に数多く登場した泉ピン子さんとは家族の様な仲となっていきました。

 

橋田壽賀子さんを看取った泉ピン子さんはこのように語っています。

 「今の私があるのは橋田先生のおかげです。舞台もドラマもやらせてもらいました。ずいぶん喧嘩もしたし、泣いたこともあったけれど、橋田さんとご主人には本当の娘のようにかわいがっていただきました」と回想。「私も熱海で暮らすようになって、最後はずっとそばにいられたから熱海に越してきた意味があったと思います」と心境を明かした。

(livedoorNEWS)

 

橋田壽賀子さんの死因は急性リンパ腫でした。

 

橋田壽賀子さんを追って熱海に移り住んだ泉ピン子さん。大女優が母親の様に慕った偉大な脚本家の生涯は波乱と熱意に満ち溢れたものでした。

 

 

まとめ

 

今回の記事では、脚本家・橋田壽賀子さんの激動の人生を振り返ってみました。

 

95年の人生を強く生き抜いた橋田壽賀子さん。ごゆっくりお休みください。

 

それでは、最後までご覧いただきありがとうございました!

 

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